「巻物を食べる」  02.03.17   エゼキエル2:8〜3:3,
                          ローマ15:4

 「食べよ」と、神の声は響いてきます。そのあと、目の前に差し出されたのは、
神の言葉の記された巻物でした。
 エゼキエルは、それを食べ、腹を満たし、体力を養い、力を得ていきました。
主イエスが荒野で悪魔から誘惑をお受けになったときに「人はパンだけで
生きるものではない。神の口から出るひとつひとつの言葉で生きる」と
おっしゃったことを思い起こします。
 私たちは、巻物(聖書)を食べることの大事さは、よくわかっています。
しかし、しばしば他のものを食べたい誘惑に襲われます。神が差し出して
くださった食べ物は巻物であった。忘れられない出来事です。

 エゼキエルは、なぜその巻物を食べたのでしょうか。
<密のように甘かった>とあります。甘そうだったから食べたのでしょうか。
そうではありません。巻物には、表にも裏にも神さまの言葉がびっしり書かれて
います。それは悲しみと呻きと嘆きの言葉でした。
食べたいと思うはずがないものでした。それでも彼は、大きく口を開けます。
それは、神が「食べよ」とおっしゃるからです。甘さを味わうことも、栄養や力を
得ることも、神さまに従うところから始まります。
そして、人の目には見えなかった甘みが与えられます。

 信仰生活の中には、しばしばこのようなことがあります。
奉仕も、楽しそうだから始めたとは限りません。自分ではやりたくないと思っても、
「神さまがそうおっしゃるならば」と、神さまに従って始めるのです。
そこに思わぬ甘みを味わうことになります。

 聖書は、自分たちの罪、汚れ、愚かさを映し出す鏡のようですから、
聖書を読むと悲しくなることもあります。
 しかし、そんな罪深い自分を愛し抜き、命を棄ててくださった方のことが、
聖書の中心です。そこに、悲しみを吹き飛ばしてしまう深い甘みがあるのです。

 <食べなさい。><わたしが与えるこの巻物を胃袋に入れ、腹を満たせ。>
神は、私たちを真に生かし、養い、救うために聖書を目の前に差し出して
くださいました。